宗教と赦しの話
自分は定期的にクソみたいな感情がたまり、そうなるとツイッターが荒れ、自らの愚行をさらけだし、こんな人間嫌すぎる誰もお前を愛さない、となりツイ消しをするとか、クソみたいな愚行をさらに更新し続ける人間である
あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜くそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそクソが〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ところで、最近少し困ってることがある
めちゃくちゃ「バイブルスタディ」に誘われる。
”めちゃくちゃ”というのはかなり語弊があり、実際は二件なのだが、典型的うまく断れない人間の私にはこれが”困る”事象となっているのだ
キリスト教の人間は基本いい人ばかりだ。より信仰度が深いほど、心も広く多くの人を受け入れる綺麗な心を持っている人が多い(と感じる)。だからきっとそれは信仰によるものなのだろう。
なので、彼らは自分たちが良いと思ったものを私に薦めてくるのだ。つまり、キリスト教を。
これは私個人の考えなのだが、私はキリスト教を信じられない。なぜなら神の存在を心から信じることができないからだ。
人生で生きていて、「なんらかの神」にすがることはある。神社に行ったりもするし、おみくじの結果を信じたりするし、受験期絵馬とか書いたし。何か緊急事態のとき、なんらかの神に祈ることもある。よくわからないけど、心のすがる先として存在する神はいる。
がしかし、キリストを信仰するとか、そういう具体性を持たせちゃうと、私はどうにもそれを心から信じることはできない。マリアは処女なのにイエスを妊娠したとか、やっぱり実話だと思えない。これは本当に私個人の意見なのだが。
でも、当たり前だけど、キリスト教の人たちはそれを”本当に”信じてるし、それが良いとか悪いとかではない、が、私は信じられないので、そこはお互いに理解できないところだと思う。個人的に聖書の中身とか宗教の成り立ちには興味はあるけども。
で、こないだ「まぁ私はキリスト教徒にはならないと思いますが、聖書には興味はあります」と言ったら、いつもお世話になってる優しい方が、聖書の要約みたいなサイトを見せて、ちょ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ざっくりとした聖書の中身を教えてくれた。
ざっくり(一部を)いうと、キリストは、自分の罪でもないくせに、人間の全部の罪を背負って、赦されるために十字架に架けられたわけであって、人間の罪がそのときキリストによって赦されたわけであって、人間は罪をかならず犯すものだから、キリストを信仰して赦してもらおうみたいな、感じだったんだけど(これはめちゃくちゃざっくりしてるし言葉選びに誤りもかなりありますが)
「あなたは罪を犯したとき、どのようになりますか?」
A.そのままどうすることもできず、どうしようもなくなる
B.イエス様を信仰して赦してもらう
みたいなページがあって、まぁ正直「なんやこれ、、、、」と思ってしまった(最悪)
ここで、私の場合、別に神に赦してもらおうとはしないんだけど、友達など自分の好きな人々に赦しを乞うている場合が多いな、ということに気づいた。
ちょっとここで話が変わるけど、
二年の前期に比較宗教論という授業を取っていた。
で、そこで「宗教」の定義は未だに決まっていないということを習った。(辞書にはあるけれど、宗教の定義は学者によっていまだに研究されているらしい)
そして、(あくまでもその授業で扱う宗教の話だが)なにもキリスト教やイスラム教、仏教、新興宗教だけが宗教なのではなく、たとえば「ディズニー」とかも一種の宗教になりうる、と習った(し、私もそれには同意だ)。
※余談だが「ディズニーも宗教になりうるよ」とこっちにきて出来た友達にいったら、「え〜〜ディズニーは宗教じゃないでしょwwwww 変だよ〜〜〜〜笑」と言われ本気でムカついたし、こういうやつとは絶対に心から仲良くならないなと思った(最低)
これは私の考えだが、個人的に恋愛ごととか、好きな人の言葉とかだって、宗教になりうる存在だと思う。宗教は心の拠り所であると思うし、宗教によって人の思考にかなり大きな影響がでると思うし、それはなにも既存の〇〇教だけに関わった話ではない。推しの存在だって宗教になりうると思うのだ。
で、話は戻るが、自分は特定の宗教を信仰してないが、自分が罪を犯したとき神に赦しを乞うのではなく、友達に赦しを乞うていることに気づいたのあった。
友達の存在が宗教、というとそれは全然違うのだが、キリスト教徒がイエスに赦しを乞うて生きているのと同じように、自分は自分のまわりに赦しを乞うて生きている。これは授業の内容を踏まえると、少し宗教に近いものなのかもしれない、宗教ではないと思うが。
だからきっと、私は自分のクソな面を、愚行をSNSに晒してしまうのだった。これは無意識だ。別に許されたいとか赦されたいとか、意識して文章化しているわけでない。だが心がそうしてしまうのだった。友達だとか、自分の周りの人たちに、無意識に罪の、自分の汚れに対しての赦しを求めていたのかもしれない、し今後も求めてしまうのだろう。こんな汚い人間でも仲良くしてね、と。
そして、こんな汚い心内をブログに書くのも、またそれの一種なのかもしれない。自分の心情を文章化するのは、その瞬間だけ気持ちがいい。汚いものを吐き出すみたいで気持ちがいい、だからやっている面もあるんだけど(で後で見返しておえ〜〜ってなる)。
20年間生きていて、何の要素が自分の今の思考回路を作り出したか、わからない。キリスト教徒だったら、全然違う人間になってたかもしれない。
ただとりあえず、私はキリスト教を否定する気もなければ、今は肯定する気でもない。
とりあえず、どうやって相手を傷つけず、バイブルスタディを断らなきゃいけないかを考えなければならないのであった。