深夜の雑記

本当は雑記など書いてる暇はなく、国際教育交流論のレポートに取り組まなければならないのだが、頭に浮かんだ考えごとを文章化せずにいられなくなる時間が時々やってくる。

 

私の書く文章は非常に拙く、日本語力の乏しさが表れていて、そもそもそれは文章だから下手くそになる、ということはなく、口語も同様に日本語が下手くそである。思っていることを文字、言語に置き換えるのは非常に難しい。

 

自分の考えが相手にうまく伝わらないときの、むなしさたるや。自分の言葉は弱く、人に突き刺さらない。使う言葉ひとつ、文末の言い回しひとつで、言葉が持つ力は変わってしまう。自分はそのコントロールが下手くそなのかもしれない。自分の感情が言葉によってうまく伝わればいいのに、言葉とはなんと難しいものなのだろうか。

 

結局、言語は難しいし複雑なので、人間は言語を超えた行動にでるのだろう。愛し合うときは言葉以上のものを交わすのだろうし、憎悪は言葉を超えて肉体的な暴力へと変わっていく。

 

人間の本能の部分において、言語は役に立たないのだろうし、言語は逆におさえられない本能的なものを隠したいときに使うものなのかもしれない。他の哺乳類には人間のような言語をもつ動物はいないし、人間の言語を習得するのは他の動物には不可能らしい(心理学の授業で習った)。

 

人間とはなんて生きづらい生き物なのだろうか。

 

私は人間以外の動物になったことがないので比較のしようがないのだが、理性をもち、嘘をつくことができ、言語を扱う人間とはなんて生きづらいのだろう。

 

だいたい人類の誕生から、人間が生きやすい時代などあったのだろうか。

 

時代が進むにつれて、差別がうまれる。差別を是正する動きがとられ、その動きがまた新たな差別を産む。人間と人間の間に生じた差が争いを引き起こす。

 

学校の歴史で学んだ内容を見ても、現代をみても、人間が生きやすい時代なんてなかったように思える。そして、今後も来ないように思う。

地球や世界という大きな単位で物事を考えたとき、今後に希望を見出せない中で、世の中を向上させる取り組みなど無駄なのではないか、と、時々冷酷なことを考えてしまう。

 

 

まったく将来の見通しが立たない中で生きるということ、の難しさ

 

 

やりたいことをやるにも、金がいる、金以前にそれを行うための能力がいる。その能力は自分には身につけることができない場合もある。いくらオリンピックに出てみたくても、身体能力的に確実に不可能だろうし、その能力を手に入れるためには金も必要である。もっとも、金を手に入れるのにも能力がいる。

 

 

いつからこんなに複雑に物事を考えるようになってしまったのだろうか。

大人になるとは非常に生きづらい。子供のころに抱いていた"大人になりたい"という気持ちはいつの間にかどこかへ消えてしまった。

 

決して今すぐ死にたいなどというわけではない。

しかし、私は人生をやりきれる気がしない。死んだら結局"無"になってしまうけれど。

 

 

自分が今、どこを向いているのかわからない。自分の中にたくさんのキャラクターがいて、どれが本物の自分かわからない。使う言葉の違いや、ポジションの違い、リアクションの取り方の違い、どれも微妙に違っている。どれが本当の自分なのか、など考えるのは愚問であり、どれも本物の自分であるが、一体もう自分が何かもわからないし、なにが不満でなにが満足なのかもわからない。

 

 

言語が存在してなかったら、ここまで複雑な感情は生まれなかったのか。しかし、もし言語がなくここまで複雑な感情が生まれていたら、それはとても苦しいだろう。唸るしかできないのかもしれない。それはとても苦しいので言語が使えてよかったかもしれない。

 

こうして考えを巡らせていると、自分がヒトであるということがよくわからなくなり、宇宙の存在について考え始めたりして、そうなるともうこの思考を終わらせることはできない。終わらせる必要もないが。と書いたところで、レポートの存在を思い出す。レポートを書かなきゃいけないので、そんな余計な思考は終わらせる必要がある。

 

ここで、私が書いた文字数は1626文字。レポートの文字数は2000文字だ。今まで書いた文字数に400文字足すだけで、レポートが完成している分量をつらつら書いてしまった。

 

おそらく、国際教育のレポートを書いてるうちに、世界への不満が新たにうまれ、どうしようもない考えが堂々巡りする未来が見えるが、私はそれでもレポートと向き合わなければならないのであった。