日記 10/15

昨日は久々にお酒を飲んだ

お酒は、良い

 

 

お酒が回ると勝手に気分が良くなる、大人は皆それに頼っていることを成人する前から知ってはいたが、自分も年々その現象に頼るようになってきた、これが大人になるということならば、すごく良くてすごく悪い。

 

 

そして、年々酒が弱くなっていく、一個上の先輩が「酒は弱い方がコスパが良い」と昔言ってたとき「なに言ってんだこの人?」と思ったが、今なら悲しかな、解る気がする。

 

お酒というものはそれはそれは昔からあるものであり、古文を読んでも帝だのなんだのがす〜〜〜〜ぐ酒を飲んでるシーンが出てくる、昔から人は酒に頼って生きている、だからお酒は良い。体質によるが、私は酔えば勝手に楽しくなるので、お酒は味がついたドラッグだと思う。ドラッグよりも良い なぜなら美味しいので()

 

(あとこれ書いてなんか思い出したけど、タイタニックのローズとジャックがビール飲んでダンスしてるシーンは最&高だよね、下級民族の酒を飲んで気分が良くなったローズがバレエをやるシーン、、、からの二人でぐるぐる回るやつ、あれはまじで最高だぜ、、、、)

 

人間というのは歳をとるにつれて、年々精神的に依存するものを自分で探さなくてはいけなくなる

 

酒もその依存先の一つであるが

 

今日は、生まれて初めてメイド喫茶にいったが、メイドさんを心の拠り所にしている人をたくさんみた。人形を使ってメイドさんとおしゃべりする常連さんのような人とかもいて、本当にいろんな人がいた。知らない世界を知るのは楽しい。

 

メイドさんは本当にかわいかった。メイドさんの中でもおそらく指名度がトップのメイドさんというのがあって、プレミアムメイドと呼ばれるやつなのだが、そのプレミアムメイドさんは本当に別格だった、、、顔の大きさが私の片手くらいしかなかった、一挙手一投足に気が配られていて、かわいくない瞬間がない、プロだった、、、、。

 

最初は初めてのメイド喫茶に少し困惑していたが、萌え萌えきゅんの魔法がかけられた瞬間、本当に魔法がかかっていてすごかった、確実に魔法がかかってドリンクが美味しくなったし、まじで"萌え"の味がした(マジ)

 

記念でチェキを撮ったが、あとで見返すとおもったよりも嬉しさがこみ上げ、なるほど、これがメイド喫茶か、、、、と21年間で初めての満足感を味わった。

 

 

21年間なんて、まだまだちっぽけで、それでもいろんなことを味わっていきている。

 

最近は自分の嫌いな部分ばかり露呈していて、まわりの人に愛想尽かされないかハラハラしているが、なんとか明日も生きていこうと思う。

 

優しくなりたい

 

 

 

 

深夜の雑記

本当は雑記など書いてる暇はなく、国際教育交流論のレポートに取り組まなければならないのだが、頭に浮かんだ考えごとを文章化せずにいられなくなる時間が時々やってくる。

 

私の書く文章は非常に拙く、日本語力の乏しさが表れていて、そもそもそれは文章だから下手くそになる、ということはなく、口語も同様に日本語が下手くそである。思っていることを文字、言語に置き換えるのは非常に難しい。

 

自分の考えが相手にうまく伝わらないときの、むなしさたるや。自分の言葉は弱く、人に突き刺さらない。使う言葉ひとつ、文末の言い回しひとつで、言葉が持つ力は変わってしまう。自分はそのコントロールが下手くそなのかもしれない。自分の感情が言葉によってうまく伝わればいいのに、言葉とはなんと難しいものなのだろうか。

 

結局、言語は難しいし複雑なので、人間は言語を超えた行動にでるのだろう。愛し合うときは言葉以上のものを交わすのだろうし、憎悪は言葉を超えて肉体的な暴力へと変わっていく。

 

人間の本能の部分において、言語は役に立たないのだろうし、言語は逆におさえられない本能的なものを隠したいときに使うものなのかもしれない。他の哺乳類には人間のような言語をもつ動物はいないし、人間の言語を習得するのは他の動物には不可能らしい(心理学の授業で習った)。

 

人間とはなんて生きづらい生き物なのだろうか。

 

私は人間以外の動物になったことがないので比較のしようがないのだが、理性をもち、嘘をつくことができ、言語を扱う人間とはなんて生きづらいのだろう。

 

だいたい人類の誕生から、人間が生きやすい時代などあったのだろうか。

 

時代が進むにつれて、差別がうまれる。差別を是正する動きがとられ、その動きがまた新たな差別を産む。人間と人間の間に生じた差が争いを引き起こす。

 

学校の歴史で学んだ内容を見ても、現代をみても、人間が生きやすい時代なんてなかったように思える。そして、今後も来ないように思う。

地球や世界という大きな単位で物事を考えたとき、今後に希望を見出せない中で、世の中を向上させる取り組みなど無駄なのではないか、と、時々冷酷なことを考えてしまう。

 

 

まったく将来の見通しが立たない中で生きるということ、の難しさ

 

 

やりたいことをやるにも、金がいる、金以前にそれを行うための能力がいる。その能力は自分には身につけることができない場合もある。いくらオリンピックに出てみたくても、身体能力的に確実に不可能だろうし、その能力を手に入れるためには金も必要である。もっとも、金を手に入れるのにも能力がいる。

 

 

いつからこんなに複雑に物事を考えるようになってしまったのだろうか。

大人になるとは非常に生きづらい。子供のころに抱いていた"大人になりたい"という気持ちはいつの間にかどこかへ消えてしまった。

 

決して今すぐ死にたいなどというわけではない。

しかし、私は人生をやりきれる気がしない。死んだら結局"無"になってしまうけれど。

 

 

自分が今、どこを向いているのかわからない。自分の中にたくさんのキャラクターがいて、どれが本物の自分かわからない。使う言葉の違いや、ポジションの違い、リアクションの取り方の違い、どれも微妙に違っている。どれが本当の自分なのか、など考えるのは愚問であり、どれも本物の自分であるが、一体もう自分が何かもわからないし、なにが不満でなにが満足なのかもわからない。

 

 

言語が存在してなかったら、ここまで複雑な感情は生まれなかったのか。しかし、もし言語がなくここまで複雑な感情が生まれていたら、それはとても苦しいだろう。唸るしかできないのかもしれない。それはとても苦しいので言語が使えてよかったかもしれない。

 

こうして考えを巡らせていると、自分がヒトであるということがよくわからなくなり、宇宙の存在について考え始めたりして、そうなるともうこの思考を終わらせることはできない。終わらせる必要もないが。と書いたところで、レポートの存在を思い出す。レポートを書かなきゃいけないので、そんな余計な思考は終わらせる必要がある。

 

ここで、私が書いた文字数は1626文字。レポートの文字数は2000文字だ。今まで書いた文字数に400文字足すだけで、レポートが完成している分量をつらつら書いてしまった。

 

おそらく、国際教育のレポートを書いてるうちに、世界への不満が新たにうまれ、どうしようもない考えが堂々巡りする未来が見えるが、私はそれでもレポートと向き合わなければならないのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人生でやりたい100のこと

今日授業でいろいろ聞いてこれは今日中に書かねばならないと思って記録する

人生でやりたい100のこと

やりたいことがわからない人生だが、やりたいことはあるのだ(矛盾)

将来を思うと憂いが心に現れるが、やりたいことを確実に消化していけば勝手に充実した人生になるかもしれない

という気持ちで100は大変なのでとりあえ書き始めてみよう(後日残りを足す)消化したら消していこう

 

1.オーロラを見る

2.sprouse twinsに会う(絶対)

3.イタリアに行く

4.ドイツに行く

5.シアトルに友人をつれて行く

6.タイに行く

7.台湾に行く(2019年12月達成)

8.九州に行く(2020年12月達成)

9.日本酒巡りの旅をする

10.スタージュエリーの電波時計を買う

11.額を決めてから、デパコス巡りをしてその額全部を散財する (2019年12月達成)

12.もっかいヘリックスを開け直す (2020年2月達成)

13.歯科矯正をする (現在進行形)

14.運転免許をとる (2019年2月AT限定取得、2020年2月MT取得)

15.さわやかにいく (2020年9月達成)

16.ユネッサンにいく

17.友達と海(かプール)にいく

18.青春18きっぷを使って旅をする

19.四国着弾する

20.47都道府県すべてに着弾する

21.フロリダのディズニーに行く

22.マルタ島に行く

23.ドイツで地ビールと一緒にソーセージを食べる

24.ウユニ塩湖に行く

25.北極に行く

26.オリンピックを生で見る(できれば開会式)

27.ホテルミラコスタに泊まる

28.アンドピープル銀座店に行く

29.分子料理を食べる

30.『未来日本酒店』にいってYUMMY SAKEを体験する

31.ダンスを習う

32.ネイルをお店でやってもらう

33.阿智村で星をみる

34.海中ポストから手紙をだす

35.スウェーデンアイスホテルに泊まる

36.オーストラリアに行く

37.友達とスキーに行く (2021年3月達成)

38.スノーボードに一度でもいいから挑戦する

39.彼氏と幸せな1日を過ごす

40.まつ毛パーマをやる

41.スイスのチョコレートトレインに乗る

42.学校帰りの夏にビアガーデンに行く

43.野毛飲みをする

44.豪華客船にのる

45.肉寿司を食べる(2021年5月達成)

46.お金を気にせず成城石井で買い物しまくる

47.コニカミノルタ プラネタリウムに行く

48.草津に行く

49.おふろcafeに行く

50.金沢に行く (2019.4.29達成)

51.中野の飲み屋を開拓する

52.サグラダファミリアに行く

53.富士山にのぼる

54.新世紀エヴァンゲリオンのアニメを全話みる2019年達成)

55.マイカーを買う

56.メイド喫茶に行く2019年達成)

57.バーレスクに行く2019年達成)

58.夜の街を好きな音楽かけてドライブする

59.ヒルトンのいちごビュッフェに行く

60.premiereを習得する2019年達成)

61.一度だけたばこを吸ってみる

62.海福雑貨に行く2019年達成)

63.富士急の絶叫に一個乗ってみる

64.アール座読書館に行く

65.相模原市のめちゃレトロ自販機があるスポットに行く

66.学生中に浴衣きてお祭りいく

67.スカイツリーに登る

68.廃墟めぐりをする

69.ディズニーランドホテルに泊まる

70.コスプレをする

71.ロッキンにいく 2019年達成)

72.サマソニにいく

73.CDJに行く 

74.単焦点レンズを買う

75.広角レンズを買う

76.デザフェスに行く

77.コミケorコミティアに行く

....

 

 

 

 

 

雑記 3/4

今日でアメリカに来て6ヶ月、帰国まで残り21日ちょうど3週間といったところになった、留学半年なんてあっという間だろうなと思ってたが、本当にもうここまできてしまった、時の流れははやい。

 

ので、今日はワシントンのことを適当に書いていく

忘れないためにも記録に残しておきたい

 

 

今私が通っているコミュニティカレッジ(短大のようなもの)はワシントン州のエベレットという街にある、Everett Community Collegeというところで、Everettはカタカナにするとエベレット派閥とエバレット派閥に分かれる街である(私はエベレット派)(どうでもいいですね)

 

ワシントン州(州の略称はWA)は北海道くらい大きく(東西でまったく違うから「東ワシントンと西ワシントンに州をわける運動」みたいなのも一部で起こってるらしい)

私が住んでる西の方は海にも山にも囲まれた地域で、自然豊かという感じがする。州の愛称はEvergreen state、常緑の州でぴったり。

 

 

ところで余談だが、アメリカには州の愛称がそれぞれある。例えばアイダホ州ならGem state(宝石の州)(これはかっこいい方でもうひとつの愛称はpoteto stateである)、ニューヨーク州Empire state(帝国の州)(かっこいー!)とか決まっていて、これらの愛称は「相模300」のように車のナンバープレートに書かれているので、他の州の車のナンバーを見て愛称チェックするのが密かな楽しみでもある。()

 

 

話は戻って、エベレットからシアトルに向かうときにはマウントレーニアが見える。

あのコーヒーでしか聞いたことない山。最初聞いた時、あ、マウントレーニアってここにあったんだって思った(留学地について下調べしてないアホ)

タコマという街にあるのでタコマ富士とも呼ばれているらしい、誰に呼ばれてるかは知らんけど。

 

反対側にはマウントベーカーという山がそびえ立つ。

寮から晴れた日に見えるマウントベーカーは、なんというか、、いかにも「山ァ!!!!」って感じがして毎回惚れ惚れしてしまう。雪筋や岩肌がしっかりと見えるくらい近くにあって、我らが相模原の城山とは比べものにならないたる帝王感である

 

そして、山の反対には海があり、ここれへんの地域の名産はシーフード、牡蠣も有名で牡蠣レストランで食べた牡蠣の美味たるやいなや(?)

山も海もたのしめる、めちゃくちゃ欲張りな土地に我は身をおいてるのである。

 

 

 

学校はすごい、みな自由だ。

頭に植木鉢をのっけてる人、クリスマスシーズンにサンタ柄の真っ赤なスーツを着てくる人、教授はばちばちにタトゥー入ってるし、鼻ピアスしてる人の多さよ。私が鼻ピアスなんかやったらモーモー度加速である(※モーモー度とは自分が牛に近づいてる度合いのことです)

年齢は本当にバラバラで大人から子供までいる、子持ちも結婚してる人も、仕事と学生の掛け持ちしてる人もいる。ガッツがすごい。

 

いや頭に植木鉢乗っけてるってなんだよ

でもこれ話盛ってないんだよ、本当に頭に植木鉢を乗っけてるカチューシャつけてるんだよ、すごい

 

 

床に寝っ転がってパソコンしてる人とかいるし。いやここは家か??

本当になんでもありだな〜と思う、すごい(すごいしか言ってない)

 

 

そして結構日本の文化好きな人、思った以上に多い、ジャパニーズクラブとかいうのある。すごい。購買に初音ミクの本とか漫画の英訳版とか売ってたし、思ったよりもポップカルチャーの浸透してることよ

 

街をみても「oishi teriyaki 」とかいうクソほど安直な名前の店がある。最初大石さんか誰かが経営してるのかと思ったよ、美味しい照り焼きだった、安直すぎる

あと「tokyo samurai なんとか」みたいな名前の店も前見たことがある。安直すぎて逆に面白い、極め付けは「sake & sushi」、「酒と寿司」なんてダイレクトすぎる店名の店どこにあるだろうか??でもこうしてみるとエベレットとかいう留学しなければ一生聞くこともなかったであろう土地に、こうやって和食が浸透してるのは面白いな、とも思う

 

 

そしてジャパニーズカルチャーカラオケも浸透している、ルームメイトが「キャリ↓オ↑キ↓」というので何のことかと思ったら、「カラオケ」のことであった、カラオケ英語にするとそうなっちゃうんだ、kara↓o↑ke↓

とにかくカラオケバーみたいなのが結構あって、でもバーだから21歳以上じゃないと入れない、アメリカは意外にも年齢確認がクッッッッッッッッッッッッッソ厳しい、スーパーで酒買う時、集団で酒を買いに行ったら、同伴者も未成年じゃないかチェックされる、マリファナ合法のくせに???線引きがよくわからん国である(偏見)

 

マリファナといえば、麻薬関連に恐怖という恐怖を感じる私でさえ、「マリファナのにおいするくせーーーー誰だよ街で吸ってんの」くらいの意識に変わってしまった、それくらいマリファナが一般化してる州、ワシントン、これが合法か

 

 

とにかくストレスにならん程度のちょっとした違いみたいなのは結構多くて、でも意外と結構似てるとこも多くて、現地に住まないとわからないようなことがたくさんあるのが面白い

 

思ってたよりはだいぶ治安いいなと思うので、いつか人生で誰かとまた行きたい土地だよ、ワシントン州

 

ー飽きたので終ー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宗教と赦しの話

自分は定期的にクソみたいな感情がたまり、そうなるとツイッターが荒れ、自らの愚行をさらけだし、こんな人間嫌すぎる誰もお前を愛さない、となりツイ消しをするとか、クソみたいな愚行をさらに更新し続ける人間である

 

あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜くそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそクソが〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

ところで、最近少し困ってることがある

めちゃくちゃ「バイブルスタディ」に誘われる。

”めちゃくちゃ”というのはかなり語弊があり、実際は二件なのだが、典型的うまく断れない人間の私にはこれが”困る”事象となっているのだ

キリスト教の人間は基本いい人ばかりだ。より信仰度が深いほど、心も広く多くの人を受け入れる綺麗な心を持っている人が多い(と感じる)。だからきっとそれは信仰によるものなのだろう。

なので、彼らは自分たちが良いと思ったものを私に薦めてくるのだ。つまり、キリスト教を。

 

これは私個人の考えなのだが、私はキリスト教を信じられない。なぜなら神の存在を心から信じることができないからだ。

 

人生で生きていて、「なんらかの神」にすがることはある。神社に行ったりもするし、おみくじの結果を信じたりするし、受験期絵馬とか書いたし。何か緊急事態のとき、なんらかの神に祈ることもある。よくわからないけど、心のすがる先として存在する神はいる。

がしかし、キリストを信仰するとか、そういう具体性を持たせちゃうと、私はどうにもそれを心から信じることはできない。マリアは処女なのにイエスを妊娠したとか、やっぱり実話だと思えない。これは本当に私個人の意見なのだが。

 

でも、当たり前だけど、キリスト教の人たちはそれを”本当に”信じてるし、それが良いとか悪いとかではない、が、私は信じられないので、そこはお互いに理解できないところだと思う。個人的に聖書の中身とか宗教の成り立ちには興味はあるけども。

 

で、こないだ「まぁ私はキリスト教徒にはならないと思いますが、聖書には興味はあります」と言ったら、いつもお世話になってる優しい方が、聖書の要約みたいなサイトを見せて、ちょ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ざっくりとした聖書の中身を教えてくれた。

 

 

ざっくり(一部を)いうと、キリストは、自分の罪でもないくせに、人間の全部の罪を背負って、赦されるために十字架に架けられたわけであって、人間の罪がそのときキリストによって赦されたわけであって、人間は罪をかならず犯すものだから、キリストを信仰して赦してもらおうみたいな、感じだったんだけど(これはめちゃくちゃざっくりしてるし言葉選びに誤りもかなりありますが)

 

 

 

「あなたは罪を犯したとき、どのようになりますか?」

A.そのままどうすることもできず、どうしようもなくなる

B.イエス様を信仰して赦してもらう

 

みたいなページがあって、まぁ正直「なんやこれ、、、、」と思ってしまった(最悪)

 

 

 

ここで、私の場合、別に神に赦してもらおうとはしないんだけど、友達など自分の好きな人々に赦しを乞うている場合が多いな、ということに気づいた。

 

 

 

ちょっとここで話が変わるけど、

二年の前期に比較宗教論という授業を取っていた。

で、そこで「宗教」の定義は未だに決まっていないということを習った。(辞書にはあるけれど、宗教の定義は学者によっていまだに研究されているらしい)

そして、(あくまでもその授業で扱う宗教の話だが)なにもキリスト教イスラム教、仏教、新興宗教だけが宗教なのではなく、たとえば「ディズニー」とかも一種の宗教になりうる、と習った(し、私もそれには同意だ)。

 

※余談だが「ディズニーも宗教になりうるよ」とこっちにきて出来た友達にいったら、「え〜〜ディズニーは宗教じゃないでしょwwwww 変だよ〜〜〜〜笑」と言われ本気でムカついたし、こういうやつとは絶対に心から仲良くならないなと思った(最低)

 

これは私の考えだが、個人的に恋愛ごととか、好きな人の言葉とかだって、宗教になりうる存在だと思う。宗教は心の拠り所であると思うし、宗教によって人の思考にかなり大きな影響がでると思うし、それはなにも既存の〇〇教だけに関わった話ではない。推しの存在だって宗教になりうると思うのだ。

 

で、話は戻るが、自分は特定の宗教を信仰してないが、自分が罪を犯したとき神に赦しを乞うのではなく、友達に赦しを乞うていることに気づいたのあった。

友達の存在が宗教、というとそれは全然違うのだが、キリスト教徒がイエスに赦しを乞うて生きているのと同じように、自分は自分のまわりに赦しを乞うて生きている。これは授業の内容を踏まえると、少し宗教に近いものなのかもしれない、宗教ではないと思うが。

 

だからきっと、私は自分のクソな面を、愚行をSNSに晒してしまうのだった。これは無意識だ。別に許されたいとか赦されたいとか、意識して文章化しているわけでない。だが心がそうしてしまうのだった。友達だとか、自分の周りの人たちに、無意識に罪の、自分の汚れに対しての赦しを求めていたのかもしれない、し今後も求めてしまうのだろう。こんな汚い人間でも仲良くしてね、と。

 

 

そして、こんな汚い心内をブログに書くのも、またそれの一種なのかもしれない。自分の心情を文章化するのは、その瞬間だけ気持ちがいい。汚いものを吐き出すみたいで気持ちがいい、だからやっている面もあるんだけど(で後で見返しておえ〜〜ってなる)。

 

 

20年間生きていて、何の要素が自分の今の思考回路を作り出したか、わからない。キリスト教徒だったら、全然違う人間になってたかもしれない。

 

ただとりあえず、私はキリスト教を否定する気もなければ、今は肯定する気でもない。

とりあえず、どうやって相手を傷つけず、バイブルスタディを断らなきゃいけないかを考えなければならないのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はっぴーさんくすぎびんぐとその他の不思議な感情

今日はThanksgiving dayだったので、色々な経緯を経て、私はとあるクリスチャンの家庭のサンクスギビングに参加することになった。まさしく"アメリカの家庭のリアルサンクスギビングデー"に参加したわけである(?)

 

感謝祭(かんしゃさい、英語Thanksgiving Day)とは、アメリカ合衆国カナダ祝日のひとつ。Thanksgiving と略称されたり、あるいは七面鳥の日(Turkey Day)と呼んだりもする。アメリカでは11月の第4木曜日、カナダでは10月の第2月曜日になっている。日本のプロテスタントでは収穫感謝日と呼ぶ。(まるまるwikipedia引用)

 

感謝祭は、イギリスからマサチューセッツ州プリマス植民地に移住したピルグリム・ファーザーズの最初の収穫を記念する行事であると一般的に信じられている。ピルグリムプリマスに到着した1620年の冬は大変厳しく、大勢の死者を出したが、翌年、近隣に居住していたインディアンワンパノアグ族からトウモロコシなどの新大陸での作物の栽培知識の教授を得て生き延びられた。1621年の秋は、特に収穫が多かったので、ピルグリムファーザーズはワンパノアグ族を招待して、神の恵みに感謝して共にご馳走をいただいたことが始まりであるとされる。イギリス人の入植者もワンパノアグ族も秋の収穫を祝う伝統を持っていて、この年のこの出来事は特に感謝祭と位置づけられてはいなかった。プリマス植民地で最初に祝われた1623年の感謝祭は食事会というよりもどちらかというと教会で礼拝を行って、神に感謝を捧げる宗教的な意味合いが強かった。(がっつりwikipediaから引用)

 

 

らしい。

もちろん我々の先祖はピルグリムファーザーズではないため、サンクスギビングデーにあたるような祝日はないが、実際に参加して、おせちづくりに似たものを感じた。

 

別名Turkey Dayというだけあって、まじでくそでかい七面鳥をまるまる焼く。サンクスギビングデーの日に近づくとスーパーには大量の七面鳥が売られる。くそでかい七面鳥が、もちろん生々しい感じではないが、大量にスーパーに売られてるのを見たときは、アメリカを感じる。

今日食べたやつは、七面鳥の中にハーブだのセロリだのオニオンだのを香りづけのために入れてオーブンで焼かれたものだった。焼かれたターキーが出てきたときは、まさに目の前に"夢"があるという感じだった。みんなはまるまる焼かれた一匹の七面鳥を目の前で見たことがあるだろうか。私はこれが初めてだった。試しに今いらすとやで"七面鳥"ってうったらまさに、みたいなやつが出てきた。

 

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↑"まさに"な七面鳥

 

他にも多種多様な料理が作られる。マッシュルームの上になんか色々のったやつとか(雑)、オリーブだのクランベリーだのちっちゃい人参だのパンだのマッシュポテトだの、あとデザートはアップルパイとパンプキンパイだのなんだの、とにかくいろんな料理がテーブルに並ぶ。ハラペーニョクリームチーズを入れベーコンで巻いて焼いたやつが美味しかった。あれなら家でも作れそうである。焼いたターキーの骨はあとで出汁をとって料理に使うらしい、そんなの美味しくないわけがない。

 

大量のご馳走をいただきながら、色々な話をきく、サンクスギビンデーの由来とか、いろんな話を聞きながら食事を食べると、とても不思議な気持ちになった。1600年代から始まった行事がこうして今も続いている。昔の人はまさか日本人がサンクスギビングデーを体験する時代になるとは思わなかっただろう。国境を渡って他国の文化を体験すると、その歴史の重みも同時に感じる。ピルグリムファーザーズなんて受験期にしか馴染みのなかったものが、一気に馴染みのあるものに変わる気がする。実際にそこにピルグリムファーザーズはいて、アメリカという国をつくっていったのだ。

 

今日お邪魔した夫妻のお宅はありえん豪邸で、ドラマに出てくるかのような素敵なお家だった。夫はボーイングで働いていた(だか現在進行形)らしい。これがボーイングの財力か(最低)。そこの家の夫妻と息子とその娘、娘の旦那と、私が通ってるカレッジの生徒4人(私含め)でサンクスギビングデーを祝った。

 

娘さんは妊婦さんで、お腹を触らせてもらった。初めて妊婦さんのお腹を触ったかもしれない。触っていたら、中にいる赤ちゃんがお腹を蹴った。これは確実に初めての経験だった。気持ち悪い言い方だが、確かに彼女の中にもう一つの生命体がいた。本当に初めての経験だったのでとても変な気持ちになった。なにか神秘的なものを感じる。クリスチャンの家にいたからか、変に敬虔な気持ちになっていたのかもしれない。生命の中にもう一つ生命がある。考えたらそれってすごく意味のわからない状態だ。

こんなに小さなものが、大きくなってまた新たな生命体をつくる。そうして時代は続いていく。

 

サンクスギビングデーが生まれてから約400年、400年前の行事を今も受け継いで私たちは行なっていて、それできっとこれから生まれてくるその子も、サンクスギビングデーの料理をつくる側になるのだろう、と考えたら、とても変な気持ちになった。この感情少し気持ち悪いけど。

 

帰りは寮まで送ってもらった。車を降りると満月が見えた。昨日Twitterで確か藤原道長が"望月の歌"を詠んだ日から1000年というのを見たのを思い出した(なんでもTwitter)。まさかそんな日をアメリカで過ごすとは思わなかったし、アメリカからみる月と、平安京から見える月は少し違うだろうななんて考えると、なんだかこれも変な気持ちになった。

 

1000年前も月はあって、日本っていう国はざっくりと存在してて、でもピルグリムファーザーズなんていなくて(それこそまだプロテスタントすら1000年前にはなかったし)、長い宇宙の中で短いとも長いともいえる人類の歴史の中に存在してる自分、、、と考えたら奇妙で、変な心地がした。

 

特にこの考えにオチもなにもないけど、せっかく生まれてきたから、満足する人生にしなければ、とどこか心の中で再確認をした。

 

他国にいるといろんな貴重な体験をする。今日もまさしくそうだった。貴重な経験をしたからにはそのときにしか考えられないことを考えたいし感じたい。今日はそれができた日だったので良かった。

次のここでのイベントはクリスマスだ。日本のクリスマスはアメリカのを真似しているからそんなにギャップはなさそうだが、ここは本場(?)アメリカである。本場でしか体験できないことをしたい。

 

〜終〜

 

 

 

 

 

感情だだ流し記録

日本という土地を離陸してはや2ヶ月、授業は7週目を終えた

時の流れの速さにおどろくけど、ここまでかなり長かった気もする

もう2ヶ月!?って思う、なのに離陸したのは3ヶ月前くらいに感じる、不思議

 

2ヶ月も1人で異国の地で母語が使われてないような状態で人生過ごしてたら、自覚できるくらいには成長した

もちろん英語力も向上してると思うし、自炊だとか、洗濯だとかの生活力だとか、対人関係を築きあげる力も尋常じゃないくらいついたと思う

 

でも、満足するレベルではないし、どうも全力で努力できないのが最近の悩み

というか人生の悩みだ

 

休みの日に12時ごろ起きてSNSやってゲームやって1日を終えたりする日も全然ある(昨日とか)()

そんなの日本でもできるのに何をやってるんだって気持ちになる、のに身体は言うことを聞いてくれない

どうしても化粧をする気力だとか、着替える気力だとかがない、そんな日がある

日本だったらいいけど、アメリカでそれかよ、、

 

でも対人関係を作るのがもともと下手くそな私は、休日に友達を誘える積極性も無く、1日遊び通せる語彙力の自信もなく(これが本当にでかい)、幸い何回か誘われることはあったものの1回も誘えたことがない

 

そういうときにすごく「あぁ独りだなぁ」と思って日本が恋しくなってしまう

人生で今は一番人に対して積極的になっていて、それは確かだし認めようとも思う、すごい自分すごい、2ヶ月でここまで対人関係を異国語でも日本語でも作り上げてるなんて、すご!!!

でも、他人と比べたりすると、やっぱり自分の"友達作り"の下手くそさに気づくのが事実

自分のキャラを出すのはなかなか難しいことで、日本ではギャグキャラのようなポジションについてた私も英語でギャグが言えるはずもなく、だいたい英語と日本語じゃ笑いの感性も違うのになんなんだうわ〜〜ってなる

英語がもっと話せたら、私もあの会話に参加できるのにな、とか思ったりするときとか頻繁にあって、かなしい、し、それがかなしいなんて相談する相手もいない、悲しんでるんだったらもっと努力しろよっていうのがオチなわけで、甘えなわけで

 

 

それと、嬉しいことを友達にシェアしたくてもできないことに気づいた(この場合の友達は私が日本でつくったこれまでの友人だち)

たとえば、シアトルにいくまでのあのビル群が見えてくるワクワク感とか、雨季のエベレットがたまに晴れた時にみえる山の景色の綺麗さとか、夕方の空気感とか、シアトル公立図書館のあの素晴らしさとか、パイクプレイスの港が見えるうきうき感とか、港をスタバ飲みながら見つめる時間とか

どんなに文章化しようが、口頭で言おうが、体感しないと伝わらないものを、シェアできないのがつらい

あ〜〜〜この場所、〇〇好きそうなのにな!とか、あ〜〜〜〜〜〜〜ここに〇〇たちと行きたいな〜〜〜とか、思うのにそれができないのがとっても悲しい(それかみんなエベレットにきてください)()

授業も国が違えば、言語が違えば、やっぱり日本で受講してたものとは全然違う訳で、すっごい面白い授業があった時に、あ〜〜〜〜〜この授業みんなとうけれてたらなぁとか思ったりする

しかしそれができない歯がゆさよ、、あーーーーあ

 

 

まぁどれだけ悩もうが頑張ろうが何しようが、自分の留学生活は自分で作り上げていくしかないので、こうやって弱音のようなものを吐いては、頑張ろうと自分を奮い立たせないといけない、というかそれしか自分を満足させる方法がないのだ

 

のこり4ヶ月(みじか、、)頑張ろう、もっともっと成長しよう、しっかり自分を省みて、他力本願にならないように、自信もつけていこう